2月も終わり、そして別れの季節に。
約3ヶ月ぶりの投稿ということですが、文章力を鍛えるべく開設したブログもここまでくると意味をなさず…
自身の継続性のなさに辟易しながら久しぶりの記録です。
今週のお題「うるう年」ということですが、ここで1つ最近見かけた「うるう年」関連の感銘を受けた漫画について。
『喰う寝るふたり住むふたり』や『モンクロチョウ』の著者である日暮キノコさんという漫画家さんがいらっしゃるのですが、自身のTwitterにて「4年に1歳しか歳を取らない人の話」として「うるう年」を題材?とした短編作品を公開されていました。
ありがちと言ってしまえばありがちな作品なのかもしれませんが、絵のタッチや節々の人間の所作がなんともいえない作家さんで、本作品の最後にこんなフレーズがありました。
同じ時間を生きる 同じ歩幅で進めなくとも 同じ”今”を ずっと2人で何でもない毎日の名もない幸せ たぶんこれが 誰かと生きる醍醐味
『0229〜スロウリィ・ロング・ライフ〜』日暮キノコ
いつか別れがくると分かっていながらも、人間は誰かと関わりを持ち続けなければならない。
別れがあるから出会いがある。
この手の人間関係を表すフレーズには色々なものがありますが、イマイチピンとこない印象があり、
なぜ人と関わらなくてはならないのか。
傷つく恐さを知っていながら、わざわざ傷つきにいく必要がどこにあるのか。
自分と他人とは違う存在、であれば歩み寄る必要って。
とややひねくれた考えを少しばかり持っていました。
けれど、私が本作品の作者が好きであるというのもありますが、「誰かと生きる醍醐味」なぜかこの言葉に惹かれるものを感じたのです。
「幸せ」ってよくわからない。
「愛」って目に見えないし。
絵空事のようにも思っていた上の単語2つ。
これらは曖昧であるから、いいのかもしれない。
失う恐さに怯え続けるのか、傷つきを恐れ出会いを避け続けるのか、それともこれらのことを醍醐味として楽しみ、受け入れるのか。
まだ四半世紀も生きていない未熟な人間であるが、何が自分自身に影響をもたらすのか、それが良くも悪くも人生を彩ってくれる醍醐味のようなものであればきっと楽しい人生を送ることができるのかもしれない。
そのために何が必要なのかを考える必要がある。
とりあえず、愛と文章力を学ぶべく谷崎潤一郎氏の作品に傾倒してみようかな。(価値観が歪まぬよう気を付けたい。)
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しかし、武漢発祥のコロナブームはいつ終息するのでしょうか。
「もうすぐで卒業式」というところでコロナの大流行に見舞われ、別れを惜しむ間もなく、場合によっては卒業式も無しなんてことも。
進路によっては予定がつけられなかったり、諸事情が…などあるかもしれませんが、入学式と同時並行で卒業式を行うのも悪くないかもしれませんね。(会場・日時は当然別で)
なんにせよ、更新頻度をあげよう。
文章力をつけなくては。
ということで、今日はここでオワリ。(乱文でした。)